悪女のダンディズム

デートの終わりは大抵、駅前で分かれるものです。改札に消える恋人。
彼女はこちらを振り返らない。真っ直ぐ人混みに消えていく。

料理ができる女がいいだなんて台詞を、油断した男は好んで言います。
だが料理なんてレシピと時間と金さえあれば猿でも作れる。
が、クレバーな女はあえて男のためには料理はしない。

掃除もできる。が、あえて男のためにはしない。洗濯物もしてやらない。


そして別れ際、振り返ろうと思えば振り返れる。が、あえてそれはしない。

服装についても化粧についても同じ。
着たいものを着て、なりたい顔になり、楽しそうにしている人より美しいものはない

男にモテるための小手先に囚われて、己を曲げたり、

欲しくもない色の服を買ったりする人は、不憫でならない。

実際、義務感で買った色の服なんて、全然着ないで終わるものです。

「おまえのために生きてやるつもりはねえよ」

という考えの方が一人の性として、一人の人間として、
明らかに揺るぎなく頼りになると私は思うのです。

おそらく男もまた、前髪の先から足の爪先まで女のために生きてやるつもりはない。

まさにこれこそが女と男の「真っ当な両思い」ではありませんか。

それでも時に、

この理解の壁を超えて、お相手のためになりたいと願う瞬間は電撃的に訪れる。

その時はその時で、素直に己の規範を超えたことをすればよろしいのだ。
己が決めた規範を破らざるを得ないものが恋やら愛と呼ばれるなにかです。

それまで私たちは、お気に入りの服を着て、

ツンとした顔をして街を歩いておればよいのです。



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